“「大迷惑」が生まれるきっかけは一人のレコード会社社員の転勤だった!”
ユニコーン初のシングルとして、発売当時メンバーの口から語られたこのエピソード。
発売から18年、ついにその社員が登場。

■EPISODE.001 「あの曲と私」

「ユニコーンがお前の曲を作ったからスタジオに聞きに来いよ」
1989年冬、休暇で帰郷していた私にマイケルという、そろそろ忘れられかけている芸人か人造疑似白人のような名前を持つ私の会社の同僚で、ユニコーンのデビューからずっとレコーディング・ディレクターをしていた男から電話がきた。
「?????」いまいち意味が分からなかったのだが、とりあえず車で15分程の場所にあるスタジオに向かった。帰郷、といっても私は東京生まれなので東京にいたのだ。その頃の私は会社の偉い人の不興をかって、みちのくでCDの営業を細々とやっていた。当時はイカ天ブーム真っ盛りの時期だったのだが
みちのくではネットされておらず、音楽産業に関わっていながら「動いている人間椅子見てえなあ」などと呟く日々だった。  スタジオに着くと「ひさしぶりー。元気?」などというお決まりの挨拶をメンバーやスタッフと交わしつつコンソールの前に座らされた。テープが回り始めると、ド派手なオーケストラ・サウンドのイントロに続き“町のはずれでシュヴィドゥヴァー・・・・”
後の「大迷惑」が流れてきた。素晴らしい出来の曲だった。内心涙が出るほど嬉しかった。私は普段世の中を斜に見るイヤなタイプの奴なのだが、この時ばかりは勝手に「励まし」と受け取った。なぜなら民生は私がみちのく行きを決意した時に送別飲みをしてくれた数少ないアーティストの1人だったからだ。

1986年、私はマイケル達と広島ウッディー・ストリートで、まだアマチュアだったユニコーンを初めて見た。キャラはバラバラながらバンドとしてひとつの方向を向いているスピード感のあるいいバンドだった。すぐに獲得が決まりマイケルが担当となった。そして彼らは上京して来たのだが、基本的にデビュー前のバンドはヒマなので打ち合わせと称してよく酒を飲んでいたようだ。
私がマイケルを酒に誘うと「民生が一緒でもいい?」みたいなことが頻繁にあり、いつしか私のなかで民生は新人アーティストというよりも飲み友達の後輩のようになっていた。そんな日々の中、私にみちのく行きの辞令が下り、マイケル主催の送別飲みに民生が参加してくれた。私はといえばオープニングからバカ飲み。その時のことはほとんど覚えていない。しかしそこに居てくれた人達のことは決して忘れることは無い。

その後みちのくに戻りCD屋を回っては「今度のユニコーンは絶対売れるから大量に注文しても大丈夫ですよ。なぜなら俺をヒントにした曲が入っているから」などと言い回っていたのだが、当たり前のように誰も信じず「またー」「意味わかんねえよ」「どの口が」などと言われ両頬をつかまれ逆方向へ捻られる等受難の日々を過ごしていた。ところがなんと「大迷惑」がシングル・カット。しかもバカ売れ。おかげで私に対する店員の目も180度変り、営業成績もグングン上がり、3年2ヶ月も経たずに東京に戻ってこられた。
しかしそのころにはイカ天は終わっていた。